浄福寺について

由緒 口伝によると、当寺は長徳四年(西暦998年)、別山守燈和尚が「薬師瑠璃光如来」をまつって「瑠璃山浄福寺」という天台宗の寺院として創建されました。その後、住職の断絶や豪雨、山崩れによって荒廃し一堂宇だけ残っていたところ、慶長五年(西暦1600年)、広島城主福島正則公によって復興されました。しかし、その後再び無住となります。慶安三年(西暦1650年)、広島禅林寺(臨済宗妙心寺派)の三世、虚櫺了廓禅師が錫を転じ来たり、安土桃山時代(豊臣秀吉の頃)に築かれた石垣の残る風早西城の平時の館跡とおぼしき風光明媚な山麓に移築・改宗し、以後は法燈不断、現在に至ります。そのため浄福寺は、別山守燈和尚を「開創」、福島正則公を「開基」、虚櫺了廓禅師を「開山」としています。

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薬師瑠璃光如来 本尊のご尊容は須弥壇より総高294cm。県南部では最大級の仏像です。一丈六尺の半分ということで「半丈六の座像」(額の生え際までの座高が四尺、約120cm)と言われています。これほど大きく立派な仏像をまつることが出来たのは、この時代それ相応の資力を持つ豪族がいた証拠で、どういう一族が何によって財を得たのか詳細は不明ですが、続日本後紀という書物に、天長十年(西暦833年)、安芸国の風早審麿(かざはやあきまろ)という人物が朝廷より表彰を受けたという記述があることから、風早には有力な豪族がいたことは間違いなく、この風早審麿の末裔が菩提寺として建立したと考えることも出来ます。

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奥之院 釈迦堂 浄福寺裏山に位置する奥之院釈迦堂は、禅宗様式の八角円堂です。本堂の上に道路が新設されるのを縁に、開創1000年・開山350年を記念して平成十六年に建立されました。奥之院釈迦堂のご本尊は、本山・妙心寺の仏殿本尊と同じ「拈華の釈迦像」です。

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山門 浄福寺山門の中国風の珍しい様式は、開山の虚櫺禅師と深い関わりがあると考えられます。虚櫺禅師は妙心寺史にその名をとどめる傑僧で、中国より渡来された隠元(いんげん)禅師の膝下に集った日本人僧侶の統率を任され、さらに長崎から妙心寺までお連れした方です。その時に受けた影響がこの鐘楼門形式として残っていると考えられます。なお現在の山門は昭和五十八年、元に習って新築されたものです。

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石垣 浄福寺の正面には、豊臣秀吉の時代、天正年間(西暦1573~1591年)より三代にわたって築造された石垣が混在しています。石積みの技術的な進歩の歴史を一見して知ることが出来る資料として貴重なものです。左方の上から3/4は、宝暦年間(西暦1751~1763年)に築かれたもの。その下が最も古く、積み上げた石と目地が横によく通っているのがその証拠です。中央より東の部分(右側)は、石の角をV字型に斜めに落とし込んで積む技法がとってあり、江戸時代末期以後の新しいものです。(鑑定:広島大学・三浦正幸教授)

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大般若経 全600巻の経典の内、浄福寺は107巻を所蔵。南北朝末期に周防国高尾山で書写、同国伊保庄賀茂神社に施入されています。それからどのような経緯で浄福寺の所有になったかは不明です。特に第399巻の奥書「応安四年(西暦1371年)奥州津軽末十三湊住呂仏子快融筆」の部分は、中世、青森県(日本海側)に「十三湊(とさみなと)」という港町が存在したことを示す、現存する文書としては日本最古の史料として貴重です。これはまた、この時代すでに日本海を経て瀬戸内海に到る航路があり、人や物が往来していたことを物語っています。また、注目を引くのは、奥書に書かれている年号が北朝であることで、このことから書写・施入された周防という地域が、当時、足利尊氏の勢力圏であったことを示していると考えられます。経巻は虫食いや破損を防ぐため、広島県立文書館の専用の書架に保管を委託しています。

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